ちんちらブログ
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アバター 3D 感想
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3Dは映画館で観る価値が高いと思い、久々に劇場まで見に行ってきました。
夏ごろからずっと注目していました。
めちゃめちゃ面白かったです。
まだ見ていない方は是非お勧めします。
ネタバレ全開で行きますので、まだ見ていない方はこの記事は読まれない方が良いかと思います。

※感想の質も悪いしマイナス方向にばかり感想が偏ったのですが、すみませんが手直しもできないのでこのまま出すことにします。


良い作品

まずアバターという映画は私も多くの人に勧めているし、見終わった後に見て良かったと思えた作品だ。
にも関わらず、この後の私の感想は悪いところばかり書いてしまっている。
それは私がそもそもストーリー重視の人間で、後で客観的に見たときにどうしてもそこになってしまったからだ。
「アバター」のストーリーは客観的に見てオーソドックスではあるけれど、エンターティメントとして、3D映画の金字塔として、劇場で見るに相応しい作品だと思う。

アバター

アバターとは2D/3Dのビジュアルチャットやワールドワイドウェブ上の、比較的大規模なインターネットコミュニティで用いられる、「自分の分身となるキャラクター」という意味で、なんらかの形でアバターを使ったことのある人は多いはずだ。
アバターは映画のタイトルにこれを使用し、内容を予告している映画だ。
ただし、映画の中で、そのアバターに対する技術に関してはほぼ説明されていない。
映画全編を流れる要素は民族間(異種族ではない)の争いであって、アバターはその小道具の1つにしか過ぎないだろう。

冒頭

アバターは本当にすばらしい映像美とカメラワーク、3D映像で実現される3D空間がすばらしい映画だ。
映画を見終わった後はともかくそのすばらしさにしばらく酔いしれると思う。
ただ、ストーリーだけを客観的に眺めてしまうと、かなりオーソドックスな映画という部分は否定できないだろう。
私はアバターの冒頭を見て、その後の展開を思い浮かべ、ほぼその通りになってしまった。

やんちゃ

主人公はやんちゃな青年だが、これはジェームズ・キャメロン監督の共通項になってきている。
アメリカ人が好む主人公像であり、女性が好む男性像で見飽きているし自分はみょうにはしゃぐ主人公は好きでもない。
主人公像として一般的過ぎて、主人公であるが故に、冒頭から得られる想定通りのストーリー運びと合わせ、オーソドックス感を強める主要素になっているだろう。

異星人

アバターの世界は別の星(パンドラ)の全くの未知の人種(ナヴィ族)を描いた作品だが、その中身は実は地球そのものだ。
木があり自然があり猛獣が出てくる。
そしてそこに出てくる知的生命ナヴィ族は、私たち人間の昔の姿、今も未開の地に住まう部族そのものだろう。
狩猟の腕を競い、そして地位が決まり、女を得る。
族長がいて、娘がいて、血筋があり、許嫁があり、恋をし、憎む。
これらは宇宙の普遍であると考えているようだが、そんなものはただのこの広大な宇宙の中の人という種族が持つ特有の性質に過ぎないのではないのか?
アバターに出てくるナヴィ族は色や形が少々違うだけで人間そのものだし、パンドラ星に出てくる動物たちも、地球の生命をベースに映画用に派手にしただけの、人間のケチな想像の域を出ない。
私がSF作品の異惑星、異種族に求めるのは、そうであるからこその異質性であり、そういう部分でアバターという作品には、地球賞賛、人間賞賛のような矮小な発想を感じてそこはがっかりだった。
ちなみに、主人公達のアメリカンジェスチャーはアメリカ人がそれが宇宙共通であると誤認しているようで滑稽だった。

異種族の争い

アバターという作品は結局の所、人間が今までずっと繰り返してきた、民族間の争いそのものだろう。
今まで繰り返し描かれてきたその題材を宇宙人という形にシフトした。その理由は、最新の技術を使った人以外の人種の映像化をやってみたかったからだけではないのか。
アバターを観ていて感じたのは、近年私が観ていた映画の中では「紀元前1万年」とかなりストーリー運びが似ていると感じた点だ。
「紀元前1万年」も異種族の争いであり、自然が描かれ、戦が描かれる。昔の民族が描かれているのでこの点も酷似点だし、紀元前1万年の世界を描いたのにも関わらず、描かれたのは現代の人間そのものという点も、ナヴィ族と酷似している。それだけではない。圧倒的な力を持つ獣を従えることによって伝説の戦士となるという部分も全く紀元前1万年と酷似しているのだ。
私が見た範囲では「ニューワールド」とも似ていた。新大陸に土足で入り込んでくる近代人。歴史は繰り返される。人間は同じ事をする。生きている限り、未来永劫。それは人間という種族の限界というより特性なのだろう。
アメリカ人は自らこんな映画を作って辛くないんだろうか?自らが自らの土地でやってきたことではないのか。

映画の限界

映画が自由に何でもできる媒体かというとそうではない。
それは見る側よりよほど作り手側がよく身に染みていることだろう。
観衆というのはバカで新しい感覚はなかなか受け入れられない保守的だというのは、過去の時代を超えた作品が受け入れられるのに多くの時間を必要とした歴史から証明されているだろう。
ついてこれない観衆に対し今までと全く違うものづくりはできない。
異星人である以上、全く概念も存在も感情も違う生態系を描く方が自然だと思うが、それは映画という媒体である以上許されない。
映画という存在自体が底の浅い限界を自ら作り出している。アバターに出てくるナヴィ族という部族を見ていてそう思わずにはいられなかった。

ナヴィ族

ナヴィ族は異星人ではない。
狩猟をし、その腕が力関係になり、その腕で伝説の戦士になれる。「紀元前1万年」と酷似していると書いたこれらの部分、伝説の獣を従えることによって伝説の戦士となり、他の部族を統合していく流れ。
なぜこんな類似点ができるかといえば、1つには人間の発想でしか異星人を考えることが出来なかったという貧弱性、もう1つは人間を描かなければ興行的に成功しないという制約、映画の限界からだろう。
これは映画だけではない。他の殆どの形態で手枷足枷となっている"制約"だ。
一般のひとがわかる概念、つまり身近な人間を描かなければならないという制約。

新世界の構築

何度か時折ブログには書いているが、私が本当に見たいのは、全くの別世界、全くの異文化、全くの異人種の創造だ。
アバター、アバターに限らず、私がSFやファンタジーを好むのはそういう理由だし、アバターを観たときもそういう期待があったのもそうだったからだ。
だからあまりに中身はただの人間、ただの地球であった点に失望感が人より強かったのはやむをえないだろう。
ただ、そういう世界そのものがこの先見れそうもないということになってくるとこれは世界全体の創作にとって由々しき自体だ。
砂の惑星の世界観はかなり既成概念を超してくれたと思うが、逆にそういう世界観のレベルの映画がその後なかなか出てこない。
完全な異種族となると、例えばエイリアンのような作品、完全に理解できない存在はただのモンスター、ただの人間の敵と落ち着いてしまう。
過去アビスのような映画の試みもあったが、結局人間に描けるものは人間でしかなかった。
私がアバターを観ていてやって欲しかったこと、残念だったことは、ナヴィ族のあの触覚のような器官からもたらされる感覚は人間では体感不可能なことのはずで、それをもっと掘り下げて欲しかった。
人間にはない概念や感情があったはずで、それらを描いて欲しかった。
本当の異種族の創造は今後ありえるのだろうか?
映画や漫画では不可能なのかも知れない。
後は時代が追いつくことがあるのかどうかだけを期待したい。

新しい映像美

アバターが3D作品として1つの分岐点となるような作品であることはおそらく間違いないだろう。
それに加えてカメラワークのすごさ。
高いところから滑空するときの視点、滝壺に入ったところの見え方、木を昇ったときの下に見える光景、どれをとっても新しい感覚があった。
私はエンターティメントというのがそもそも嫌いだ。
TVで繰り返し再放送される、不自然なほどいろいろな偶然が起きて、2時間ドタバタやって楽しませる。音と映像で煙に巻く、ストーリーの整合性など二の次。そんな作品が好きじゃない。
アバターも3時間近くともかくドタバタやっており、エンターティメントであるには変わりがない。
ただ映像があまりに美しく斬新だったせいで、エンターティメントの新たな価値を意識できた。

アバターという自己認識

アバターは自分以外の肉体を得る、その技術を指す。
そのテクノロジーやバックボーンについては劇中ではほぼ触れられていない。
「精神など肉体の玩具にすぎず、中枢など末梢の奴隷に過ぎない」ニーチェ
くだらない漫画の論理など見たくない。
人は遺伝子によって性格そのものをコントロールされている。
短気に生まれつくのも陽気に生まれつくのも肉体的特徴にしか過ぎない。
だがアバターは性格そのものを乗せ替えることが可能だと考えている。
新しい肉体にあるあらたな脳はその役割を担わない。
そこに一切の説明はない。
アバターを操っているとき、どうやっているのか?
電波で遠隔操作しているのか、有効範囲は?
こういったところの説明不足は否めないが、アバターという概念自体は考えるのに面白いネタだろう。

アバターと憑依

アバターのこれら概念は実は「憑依」だろう。
自分が自分以外のものに完全に乗り移る。
そして、確かに私たちは肉体の玩具と成り下がっているのだ。
私たちはこの肉体が唯一無二だと思っている。
しかしそれは本当は違うはずだ。
たまたまこの肉体を得ていたに過ぎない。そうのはずだ。
私たちが自由にアバターのように肉体を操ることができたなら。
その時はじめて精神は精神として1つの独立した存在として、その存在を確立できるはずだ。
劇中で主人公ジェイク・サリーは今の自分が一体何者なのかもわからないといった言葉を吐く。
ここが実はアバターという作品の中枢だと私は感じた

他の自然とか異種族とか争いとかではなく。
アバターというタイトル、アバターという技術を持ち出して見せたかったもの。
肉体という牢獄から解放された果てに見えてくるもの。
精神が肉体を支配したとき、肉体を自由に得られるようになったとき、その時人間は人間でいるとは限らない。
アバターという技術は、今後私たちが魂と呼ぶ物の存在を本気で見据えていくつもりなら、現実として必要な技術だろう。
それをアバターは観衆に優しく教えてくれた作品でもあっただろう。

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テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

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